足フェチについて

2021-11-19

「手フェチは変態じゃないが、足フェチは変態だな」

というような言葉を、村上龍の作品『愛と幻想のファシズム』の作中で、主人公である鈴原冬二が語るシーンがあります。(記憶は曖昧ですが…)

この一文を読んだとき、私はこの言葉に妙に納得しました。
手フェチは変態ではなく足フェチは変態だ、ということに納得したわけではなく、
“ 社会的に、手フェチは変態扱いされにくいが、足フェチは変態扱いされやすい” と言うことに。

私自身も、足フェチというのはどことなく社会的に、“ じめじめした後ろ向きなイメージを持つフェチ” だと感じてきました。

なぜか。

今回はその理由を考えてみました。

様々ありますが、一つには、“ 手に比べて足は汚いもの” とする文化が背景にあげられると思います。

日本語では、数を減らす(一定数から削る。端数を処理する)意味で「足を切る」といい、好ましくない現状から脱却することを意味する、「足を洗う」という言葉があります。
お世話になった人や物、場所には、足を向けて寝られないとも言いますよね。

また、目上の人には腰から下に身に付ける物(靴下など)は贈らないというマナーもあるようです。

私自身は、ニオイや傷み、汚れのない足が好きですが、ニオイが好きであったり、汚れた足が好きだったりする方も少なくありません。
それは、誰かはバラのニオイが好きであり、誰かは雨に濡れたアジサイが好きであるということと、それほど差があることではないと私は感じます。
​それは個性であり、個性は尊重されるべきものだからです。

少し話はそれますが、文豪 谷崎潤一郎 が足フェチだったというのは有名です。
谷崎潤一郎の短編小説『富美子の足』は、加藤ローサの主演で映画にもなりました。

最後に、足フェチ文学とも呼ばれる谷崎潤一郎の、清々しい足フェチ描写をご紹介します。

拇指(おやゆび)から起って小指に終る繊細な五本の指の整い方、絵の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵(きびす)のまる味、 清冽な岩間の水が絶えず足下を洗うかと疑われる皮膚の潤沢。
ー 谷崎潤一郎『刺青』より
ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これはたしかに己の物だ、己はこの足を、彼女が小娘の時分から、毎晩々々お湯へ入れてシャボンで洗ってやったのだ、そしてまあこの皮膚の柔かさは、―― 十五の歳から彼女の体は、ずんずん伸びて行ったけれど、この足だけはまるで発達しないかのように依然として小さく可愛い。そうだ、この拇趾(おやゆび)もあの時の通りだ。小趾(こゆび)の形も、踵の円味も、ふくれた甲の肉の盛り上りも、総べてあの時の通りじゃないか。………私は覚えず、その足の甲へそうッと自分の唇をつけずにはいられませんでした。
ー 谷崎潤一郎『痴人の愛』より